死のうと思ったことは幾度かあれども、本気でどうにかしようとなんて思っていなかったから今こうして生きているんだと思う。

毒々しい題名になってしまったけど、自分の中できっとこれが答え。

 

とある人の言葉がグサリと胸に刺さって、今も「かえし」が引っかかっているような錯覚を抱いているのでいつか書こうと思っていた話を書いていこうではないか。

何か長々と文章を書くときはお酒を片手に書くので、もれなく今回も(何度かに分けて書いているがいづれも)お酒の缶を傾けながらぽちぽちと文字を打つ。

 

 

最近巷を騒がせた死の話といえば、三浦春馬の死だろうと思う。(現時点では)

私自身、彼のことはそこまで大好き!という気持ちで見ていたわけではないが、売れっ子俳優であるし、名前を知らぬものはいないぐらいの知名度であったろうし、見ていたドラマにも出ているような人だったので衝撃は受けた。

「知っている人の死」というのは自分の中では結構重いものになるのだと感じられた事件でもあった。死を知ったその日はお腹のあたりがずっと重く、心なしか気持ちも沈んだように思う。

ここで更に時を戻そう。(ぺこぱ)

彼の前に私に衝撃を与えたものは、木村花の自殺であった。

お恥ずかしい話であるが、私は彼女の死の報道があるまで木村花という女性が存在していたことも知らなかった。何を生業にしていたのかも、有名なテレビ番組に出ていたことも。自殺の理由が本当に合っているのかは今となっては確認もできないが、もしそうだとしたならこんなに痛ましい話はない。

同じ職業であり先輩である人の怒りの言葉を見ると、心が震えた。

今でもふと思い出しては、自ら死を選ぶほどの境遇とはどんなものだったのだろうと思わずにはいられない。「知っている人の死」だけでも自分で驚くぐらいに重みを感じていたのに、その人と深い交流が、強い思いがあったとしたらいかほどだろうか……。

などと言ってみたが、実際に「お前の両親や兄弟が死んだなら」という質問には何も感じることができない。本当に不思議なのだが全くリアルに思い描くことができない。「そうはならない」と考えている自分がいるのだなと思う。

とりあえずその話は今は関係ないので置いといて……。

 

 

自ら死ぬことを考えるということは結構の人ができることだと思う。友人たちとのノリで「死にてぇwww」と言うのとは別に、現在置かれている自分の場所がつらくてここから脱出するためには消えるしかないな、という時に思い考える死。

でもそれを実行に移せるかどうか。

死ぬまでの経路って怖いと思う。よし死ぬか、と思ったら次はどうやって死ぬかを計画すると思うんだ。私はそうだった。

死ぬのは痛い。体に傷をつけなきゃ死ぬことができない。SNSで百合の花を大量に…という話を見たが、現実的ではないだろう。学生時分だったので金銭的にも無理があったので却下。(その後現在、扇風機のやり方を見かけたが眉唾では笑 詳しいやり方があるのかもしらんけど)

そうなると痛みを感じないよう一気に死ねるやり方がいいなと思うけれど、それもうまくいけばの話になるだろう? その仕方で亡くなった人に「どう? 痛み感じた?」とは訊けないし、自分で試してみて痛かったら嫌だし……。飛び降りも、飛び込みも、リスカや首つりや過剰摂取なんかも痛くて苦しくて、更には綺麗な死にざまにはならない。死ぬのに綺麗も汚いもあったものではないが、本気の死を考えなかった人間として見てほしい。

そこまで考えて、痛いの嫌だし死ぬのやめよう。と思う。

そうしてずるずる生きてきて、立派に成人し、今は社会の中に溶け込む元いじめられっ子となった。うわぁ! 一人最高! と踊り狂う幸せな人間にもなった。

死ぬと決めてそれを決行した人は、私たちなんかが思いもつかないほど何かに絶望し、何にも癒されず、相談もできず、小さなサインを送っていても誰も気が付かず(気が付かなかった事が悪いわけではない)、もうダメだと肩の力が抜けきってしまったのだろうな。

私は大人の人が自殺をする「理由」がわかっても、「はっきりとした理由」がわからない。想像力が乏しいので、この人はこの理由で亡くなったよと言われると、その理由を避けるための行動はしたのか、できない理由があったのか、相談は難しい状況だったのか……と考えてしまう。死ぬと決めて実行したのであれば、どれも試してダメだった可能性が大きいのだけど、諦めずに何か策を企てることはできなかったのか? と思ってしまうんだよな。

幸運なことに私は社会に出てからはいじめを受けることはなくなった。なので、大人の世界での自殺理由がすぐに思い浮かばない。概要がわかったとしても、できる限り抗ったのか? 今後の楽しみを考えられないくらい疲れてしまったのか? と探りを入れるような考えしかできないのだ。

 

 

中学の頃が一番酷かった。身体的ないじめはなかったと言って問題ないと思う。テレビでよくあるトイレで水をかぶせられるとか、教科書をばらまかれるとか、幾人かでふざけているように見えてその中にカーストがあるなど……そういったことはなかった。

精神的なことが多かったのだな。遠目から悪口や中傷の言葉を投げてみたり、私には身体的な特徴があるのでそのことで私にわかるように仲間内で笑い者にしてみたり、気が向いたら本人にキツイ言葉をかけてみたり、自分が次の標的にならないよう無視を決め込んだり……。みんな生き残ることに必死だった。

ここで先生に相談なんてして下手に名前を出されたりしてもまずいし、なんならクラスで話をされようものなら標的は自分一人なので密告がわかってしまう。更に思春期でもあったので絶賛反抗期な私は親にも良くは話さなかった。本当に小さなサインを何かしら送っていた気がするが、それにも気が付かれることなく過ぎていった。気づいてほしいのになぜ親にも小さなサインしか送れなのだろう。反抗期だったからかな……。

高校からは結構緩和された。同じ中学の子も結構いたけれど、友人が少し増えた。一年次は中学時代を引きずっていたけれど、二年に上がってからはなかなかに楽しい日を過ごしていたと思う。これは中学時のいじめの主犯がこの高校受験に失敗したこともあるだろう。もし合格していたら暗い学校生活が引き延ばされていた可能性がなきにしもあらずだ。

更に言えば、視野の広い子たちが多かったのも理由の一つだろう。いわゆる「学年でのカースト上位」の子たちが色んな種類の人間がいることを理解してた。これが結構大きい。中学は閉鎖的な村のようだった。長に意を唱えれば村八分にされるが如く爪はじきにされていたが、高校は色んな村から人を寄せ集めて新たなコロニーを作った感じ。まあそれでも遠目から石を投げてくる人はいたけれど、こんなもの中学の頃に比べればどうってことなかった。

あとは、高校に入って自分の世界が広がった。中学ではできなかったこと、行けなかった場所、お金がなかったから自分たちで工夫をして楽しむことが楽しかった。

とは言ったものの、やはり学校の中というのは学生の気持ちを大きくするようで、私は常に下層の方を生きて来た。中学のようにいじめられたわけでもないが、似たような何かを感じずにはいられなかった。捉え方によるとか、思い過ごしとか、外野から何か言われたとしても「お前に何がわかる」とはねつける強い気持ちがある。私は高校でも下層にいた。

けれど、その下層の私にも声をかけてくれ、話をしてくれ、共に何かを楽しんでくれる者がいたことが救いになった。だからこうして今生きているわけなのだ。

だから、学生でいじめを受けていて、耐えられなくなって死ぬことを選んでしまった子たちのニュースを見聞きする度に、自分が年をとった時のことを考えてみてほしいなと毎回思ってしまう。自分自身がそうなのだけれど、よく老人になった時の自分を想像する。

 

 

「死」に興味があるので、その手前に当たる老年期を想像してしまうのだけれど、自分がおじいちゃん・おばあちゃんになった時って「あの頃は……」って懐かしい話をし始めて、笑い話になってるんだろうなって思うんだよ。

体が動くときは旅行なんか行ったりさ、家でのんびり音楽とか聴きながら本を読んだり、結婚してれば伴侶もいるだろうし、二人が望めば子どももいたり孫もいたりするかもしれない。そういうことを考えるとなんだか勝手に楽しくなってきて、将来に希望なんかでてきたりして。だから生きることやめらんねぇなって思う。

こういったように、楽しいを感じられなくなると人って生きていられなくなるのかな。

「嫌なこと」ばかりがリアルになって、周りに気持ちが乗らなくなって、人に相談しても現実がなにも変わらないって思ったり、そもそも中学時代の私のようにそのことすら放棄してしまったり。

三浦春馬氏や芦名星氏(書き始め初期から結構時期が空いたな)がどういった経緯なのかは知らないが、木村花氏は学校に似たようなものを感じる。

顔が見えないことの気持ちの肥大によって阿呆な番組(私個人の思いだ)にノせられた視聴者たちの心ない言葉によってどれほど心が痛んだか。彼女のアカウントを見るたびにつらくなる。(亡くなった後に申し訳ないが何度か拝見させて頂いている。現在もだ。)

Twitterがよく例にあげられるとは思うが、最近よく使用しているのだけれどYouTubeもなかなかだなと思うこともある。YouTuberの動画を見たり曲を聴きながら作業したりするのだが、何か一言書き込んだ者に対して誹謗中傷のような言葉が投げかけられているのを見ると恐怖を感じる。その動画に対するポジティブな感想に同意したり、秀逸な言葉のセンスに笑ったりするのが好きなので流すように読んでいるので、あまりしっかりと読み込むことはないのだけども……。

今、つい先ほど目にしたのは、自分はいじめられているのでこの曲に勇気をもらえたといったような内容のコメントに対し、それは嘘だろう自分はかまってちゃんが嫌いなのだという旨を書いた返事。

いや、それを彼・彼女に伝えなければならない理由はなにか?

言葉の数だけぶん殴ってやりたい。どのような環境で育ったらこんな考えができる? この一言を苦にして死んだとしたらお前は何をして償うのだ? こんなことで死んだのかと笑う奴なのだろうか。良心などないのだろうか。

心ないことを言った者に、心ないことを言い返すと、それではいじめた側と同じですよ。と言われることもある。確かに一理ある。しかしそいつらがのうのうと何にも縛られることなく同じことを繰り返すかもしれないんだぞ。それはどうなんだ。うわー死んだわ(笑)で終わってしまう心の持ち主だとしたらどうなんだ。

いじめを受けていた当時、いじめていた奴らは全員死ねという気持ちでいたが今はそうは思わない。ただその人の未来が笑えないものであることを願っている。

自分が加害者側と同じことをしてしまいそうだなと思った時(今回の場合は、加害者に同じような誹謗中傷の言葉をかけてしまいそうになった時)は、そんな風に思って、被害者の方にポジティブな言葉をかけてあげてほしいなと。悪口で埋まる返信よりも自分を鼓舞してくれる言葉が多い方が自分は嬉しいなと思うので。

……当事者がどう感じるかはわからないので、一概には言えないけども。

 

 

自ら死を選ぶということは、自然に任せていれば起きないこと。人の介入があり、自分が痛めつけられることによって自殺をしようという考えが生まれるのだと思う。

そこでどう踏みとどまれるかというのは、被害者の強い心持ちも大事だし、周りの人との関りも大事。私だって自分一人ではここまでこれなかったなと今ではちゃんとわかる。両親はいつだって子どもの味方だし、私の理想の老後の基盤を過ごすしたばあちゃんはいつだって優しかったし、人数は少ないが今の私と仲良くしてくれる人もいる。そういう繋がりが大事。

学生時はそんな話を見ると、今でいう「草」という気持ちになっていたが、結局はここに落ち着く。大きくなるにつれわかるのだから、学生時とは残酷だなぁ……。

いや、高校で少し緩和されたわけだけれど、大学に入っても中学を生きている人が何人かいたので学生時だけとは限らないわけか。そういう人たちが年齢だけご立派になられていくわけだから、いくつになっても心に傷を負う人がいるわけだね。

それぞれ直面する年代が違うというだけの話かもしれない。

ひっそりとした夢があって、夕方くらいから夜中にかけて開くようなお店が欲しいなとずっと思っていて、オシャレ全開!というようなのでなく、自分の時間がもてるようなところがいいなとか。そんなもの近場にないわけで、じゃあ作っちゃえばいいじゃんと思った次第。

言うだけはタダだし、これもまた一人じゃできないことなので、ちょっとずつやっていこうかな。幸運なことに職場にいた人が自分でお店出すと言ってやめた方がいるのでその人にちょっと聞いてみよう。

とっても運が良くて、この夢を追いかけることを飽きなかったら自分と同じような境遇で生きている人たちが他人を感じられる場所を作れたらいいな。

などと飲兵衛が言っております。

なんでもまずはやってみようぜ。